晴耕雨読

晴耕雨読

忘れてしまうから残す

弟が死んだ夢を見た日

家族が死ぬ夢はどうやら吉夢らしい。人が死んだ夢は今までたぶん見た事がなくて初めてだったけど、めちゃくちゃ悲しくて、ああ、家族を愛している、ってこういうことなんだな、とも思った。加えてその日はほんとうに、転機の日だった。兄弟が死ぬ夢は「これまで大事にしてきたもの を失い、 その代わりに新しいものを手に入れること を示しています」だそうで、その日はたしかにその通りになった。失った大事なものはちょっと明確では無いものの、新しいものを手に入れた、凄い日だった。夢占いは案外当たるらしい。



10月13日、電車のホーム、一緒に歩いていたはずの弟は電車にひかれて死んだ。手を繋いで歩いていたような記憶があるけれど、現実世界の弟はもう大学2年で、背も大きい。弟は電車に引かれて死に、わたしは生き残って、それをどこまでもいつまでも後悔し続け、大きく泣いてた。もう会えないというのがひどく悲しかった。実際の弟に何があったんじゃ、とすこし心配になったものの、家族LINEは開かなかった。「今日弟が死ぬ夢見たんやけど大丈夫?(笑)」なんてラインを送るなんてちょっと小っ恥ずかしかったからだ。それでも、もう会えなくなることがこんなにも辛いという、これがきっと愛なのだろうなと思った。ちょうど読んでいた高瀬隼子さんの『犬のかたちをしているもの』の中にもそんなような言葉が出てきていたことも、その時同時に思い出していた。夢で良かった、と。もう会えなくなるなんて辛くて辛くてやってられない。やっぱり家族の誰も、死んでほしくなんてない。そうつよく、つよく、思った。




その日はある仕事の面接がある日だった。大事、でもあったし、実際に素直に口にしてしまい「それ、大丈夫なんですか?」と笑われてしまったけれど内心、ほんとうに、ほんとうにそこまでめちゃくちゃな期待もしていなかったというか、家も遠いし、引越しもリスキーだし、うんぬんかんぬん……なんて若干(もちろんいい意味でも)気の抜けた気持ちで受けに行ったのでもあったその面接は、結果から言うと、合格をいただいた。不思議な面接だった。なんというか……、わたしは人よりも頭の回転がたぶん、というか、確実に遅い。遅いというか、しっかり考えてから物を話したいタイプ、とも言えるのだろうけど、二つのことを同時にやるのが苦手だし、考えながら話すことも無論、得意では無いので難しい質問には少し悩む時間がほしい人間で。その日の面接は、そう、そんなわたしが2人いるような、向こう側の方もわたし、のような、“間の時間”がたくさんある、不思議な面接だった。もちろん気まずくなかった訳では無いけれど、よく訪れていた“間の時間”はお互いに必要なものだろうとお互いに理解していてどちらも急かすことのなかった、そんな、とっても良い時間だった。終わった時にほっ、と一息ついてから時間を見たら1時間以上経っていて、20分足らずでピュン!と終わったヴィレヴァンの面接とは大違いだったな、とその時の自分は思っていたのをよく覚えている。




もうすぐ1週間が経つ今でも実感はあるようでなくて、ないようである、不思議な気分だ。11月からもうがっつり入らせてもらえるらしい。大丈夫かな。でも不思議とそこまで緊張感はない気がする。かといってワクワク!ドキドキ!もそこまでなく、ただただ、不思議だなあ、と思っているというか、そこで働いている自分の姿が、ぼんやりとだけど、想像できているのも不思議だし、でも別に「わたしでいいのかなあ」とか全く思っているわけではなく、むしろ「ようやくあそこに居れるんだなあ」と思っているというか、でもそれも不思議な事だよな、というか。あとはそうだな、ちょっと今働いているラーメン屋さんが恋しいような気もしているかもしれない。新人なのに誘ってもらった20日のBBQがお別れ会、みたいな感じに(自分の中だけで、だけれど)なっちゃうのが切ないな、なんてことも思ったりしてしまう。





でも、そういうタイミングだったんだろうなあと、いつか来る時が来たらすっぱり割り切って、わたしはすこしずつ、ちょっとずつまた、前に進むんだろうと思う。今までもそうしてきたから。ひとつずつしっかりこなして来たから今がある、なんて思っちゃいないしむしろなにもちゃんと始めてちゃんと終われたことなんてないのにどうも恵まれすぎているのでは?と申し訳ない気持ちが湧くまでにいつも思ってしまうけれど、少しでも前向きに、また、進みたいと思っている。進めますように、と、他人事のように願ってもいる。25歳になり自分の中で悩み続けていた、そしたらいつのまにかあっという間に10月を迎えてしまった、そんな今年、2022年だったけれど、何かをまた始められる、新しい場所を見つけられる、そこに居られる、そんな気がしている。