晴耕雨読

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忘れてしまうから残す

0514 かわいいを見せつける

昼間、もう今日はなにもしないぞというテンションのもとゴロゴロと自堕落にしていたら、ぽろりといつのまにかこんなツイートをしていた。





昔から「男の子?」と間違えられることの多い、女の子扱いをあまりされない人生だったなと改めて思う。2歳上の兄、4つ5つ離れた弟に挟まれた真ん中っ子のわたしは幼少期からスポーツばかりしていた。外で遊ぶのが好きな、アクティブでわんぱくな子供だった。だからそれはなるべくしてなったのかもしれないし、何処かのタイミングで(おそらくだいぶ初期の頃から)自分ももうそれでいいやと諦めていたところがあったのかもしれない。「スカート履いたら?」だとか、「もうちょっとかわいい服を着なさいよ」だとか、「化粧もせんで」だとか、そういえばたくさん言われ続けてきているなと思い当たる。でも誰にいつ何時そう言われようと心でべぇっと舌を出したままハイハイソーデスネーと受け返していたから、あまり記憶に鮮明に残ることも無かったのだろう。髪はもう遡れば小学校高学年の頃から長く伸ばすことは一切無くなり、スカートも買わされはするものの二度三度、足を通せばそれなりに多い方。有村架純をもうすこし小さくしたような、かわいくお洒落な1歳上の従兄弟とどれだけ比べられてきたんだったか。


誰も自分を『自分のまま』では認めてなんてくれなかったな、そういえばずっと、とぼんやり思う。自分の「かわいい」は人とはズレているから、「女の子らし」くないから。子供だったはずがどんどん成長していつのまにか大人になって、自分でいろんなことを選択することが増えて、自分のすきなものも増えていった。すきなものがたくさんあったからか、そうやって認められてこなかったことを悲観したことは不思議とない。冒頭に「諦めていたところがあった」と書いたがこれはちょっと違って、諦めるというよりは、自分自身で自分を「これでいい。これがいいんだから」と認めてあげながら自分を貫き続けてきたのだ、わたしは。女の子らしいとか、男の子らしいとか、わたしの「かわいい」はそんなものでは測れないんだと、つよい心で。




人に認められたいとつよく思うことはそんなにない。だから服も、メイクも、そこそこでいいと思っているんだろう、23歳になったばかりの今もずぼらで、自己流で、適当この上ない。でもかわいいなと思う服やファッションを夜な夜な探して見つけてはとりあえず毎日のように動いているLINEグループに投げ、かわいいかかわいくないかのジャッジを伺ったりだってする。人に認められたいとつよく思うことはそんなにない、でもわたしはやっぱりすきな人たちには「かわいい」と、何度だって言われたいのだ。だからいつだって自分の「かわいい」を両手に大事に大事に抱きかかえて、こんなのはどうですか、とわざわざ見せびらかしにだって行くのである。わたしはこんなのがすきなのだけれど、どう?と、「かわいいやん」待ちをしながら。