晴耕雨読

0331

たまに、月が綺麗だから好きなのか、綺麗な月を見ている自分が好きだから月が好きなのか、読書が好きなのか、読書をしている自分が好きだから読書が好きなのか、分からなくなる。月を見てるワタシ、いいでしょ?って。読書してるワタシ、かっこいいでしょ?って、今でも誰かに褒められたがってるのかもしれないとほんとうにたまに、おもう。自分にはこだわりがあるようで全然ないのかもしれないと極端に不安がったりするし、自分に自信なんてほんとうは1ミリだって持ってないのかもしれない、いや自信なんてないんだほんとうは、と自己嫌悪に陥ったりもする。春は、陽気が良いからつい色んなことを考えすぎてしまう季節だ。



4月になる。4月は自分がまたひとつ歳を重ねる月だから、すごく好きだ。色はなんとなく少し青い感じがして、それは海よりも淡くて、空よりも薄い、水色っぽい青(いやほぼ水色?)。桜が満開になる時期なのに個人的には4月の色は青なんだよなあと、自分でも不思議に思うけれど、よく晴れた空を、この月だけはもしかしたらよく見ているからなのかもしれない。あんまり雨、降らないといいな。




好きなものがあるということ。月を見ること、読書をすること。月を見ることも、読書も、自分がしたいと思えるタイミングでこれからもしていきたいのはもちろんそうで、やっぱり好きなものは、他人にどうこう言われたり他人の視線を感じずに、実感したり掴み取っていたい。「あ、本読まなきゃ」じゃなくて、「あー、本読もー」くらいが、やっぱりいいよねえ。

意見するということ

地震、かなり酷かったんだなあ、北の方の友人たちは大丈夫かなあ。防災リュックやっぱり作らないと不安だよなあ。ぼんやりそんなことを思いながらツイッターを見ていたら、GACKTさんが愛犬を親しくしていたご夫婦の元へ里子に出す、というある動画がひどくマイナスな方向で話題になっているのがタイムラインに流れてきて、一部始終をなんとなく流し見した。前にもこんなことがあったような気がするなと思い出す。なんの先入観も前情報もなにもなく見たら「お〜いいやん。いいやんか〜」となってしまうある情報や報道が世間的には、と言うか、ツイッターの世界的には?、「なんだそれは!駄目だろう!!!」「絶対にそんなことはしちゃいけない。有り得ない。非人道的だ」と激しく叱責されていたりして、びっくりするということが、あった。ネットの世界の賛否に、どこまで振り回されていいのかが、しんどい。特に今回のGACKTさんの件についてもモヤッとしたことがあったのでメモ程度に残しておく。




まず、GACKTさん(以後彼、と書く)のこの動画に対するもっと深い本心やその行為をしてなにがしたかったのか、お父さんと奥さんはどう思ったのか、それでよかったのか、その後も幸せに暮らせているのか、あの動画だけでそれらはまったく完全に把握はできないな、と思った。だから、見ているこちら側、視聴者的な酌量で決めつけるしかない(決めつけると言うとかなり強い印象を受けるだろうが実際かなり多くの人がそうしているのでそう明記する)。



倫理的な問題、命が関わっている問題というのは白黒つけてしまうのがかなり難しい。否が応でも感情論がそこには含まれてしまうからだ。例でいえば安楽死がいちばん想像するのも意見を持つのも簡単だとおもうが、これに対する白か黒か、は、「患者が殺してほしいと言ったならば医者は手を下していい」のか、「命は尊ぶべきものであるから延命させるべき」なのか、。どちらかを絶対だと、100パーセントそうするべきだと決めてしまうのはあまりにもまだ、議論が足りない。もしかしたら死刑制度の問題にも関わってくるかもしれない。人から命が生まれる、だから人の感情論も大事になる、よって、命というのはひどく難しい存在となってしまう。


そんな命を犬ももちろん持っている。心臓がある。動いている、息をしてご飯を食べ寝て起きて、毎日を生きている。愛犬であり家族であり、かけがえのない尊ぶべき命だ。だからきっとその愛犬を里子に出すという動画内での彼の行動には『命を粗末にした』事実はある。


でも、『命を粗末に"しようとした"』意図は、彼にもご夫婦にも、あったとはあの動画だけでは言いきれないのではと思ってしまったのだ。『命を粗末にした』という決定的な事実は、あの動画を見て誰が決めるのだろう、と。犬が、もしかなりのストレスで3日以内に体に異変を起こしてしまったりしたらそれはきっと『命を粗末にした』ということになるんだろうが、彼も、ご夫婦も、犬も、幸せに暮らせるのならそれは『命を粗末にした』と、言ってしまっていいのだろうか、と。本人たちの間にしか通じえない親交や本人たちの感情、想い、考え、感じたこと、それらを無視して『命を粗末にした』と、言い切ってしまうのはあまりにも苦しいのではないだろうか?それがまず、モヤッとしたひとつのポイントだ。




この世の中には、良かれと思ってやったことが思わぬ方向から、そして唐突に、ひどく、つよく、非難されることはほんとうによくある。「そんなつもりじゃなかったんです」「実際はこのような状況でした」とこと細かく説明し、釈明をしても収まらないその大きな渦のようなものは、時間をかけることでしか、解消できなかったりする。


彼の行動を非難し難色を示す言葉を吐き続ける人達は、何がしたいんだろうか。彼の、GACKTさんの考え方を正したいのか、それとも同じ過ちをもう二度とこの世の誰も、起こさないように問題定義してくれているのか。



こんなことを言うと元も子もないだろうことをもうこの際だから言ってしまうが、芸能人という立ち位置を持ってして生活している人たちはさぞ生きづらいだろうなとおもう。影響力があるんだからと言って仕事を任され責任を果たし、持て囃され持ち上げられ、笑い、泣き、時には嘘もつき、影響力があるんだからと言って発言には気をつけろと言われ、行動も制限され、プライバシーを侵害されることもあるし、このように瞬く間に、しかもおそらく本人も思ってもみないタイミングで炎上したりもする。




これが友人同士だったら、わざわざネットに吊し上げて「これはダメでしょ。一発アウト」だなんだと言われ一瞬で拡散されて非難轟々賛否両論…… なんてことには、おそらくならない。せいぜい「え、なにそれ引くわその考え…」ということを伝えてしまって仲違いしてしまうか議論できる人なら考えを共有するか、もしくはもはやそれすらも言わずゆるやかに友人関係を続けていくか(もしくはいさぎよく友人関係を絶つ、か……)、だろう。


SNSを使って意見するというのは一見簡単そうに見えるし実際簡単に指一本でできてしまうし、手っ取り早く情報も仕入れられるし便利だが、結局そんな遠い他人のことで議論しマイナスな気分を味わってしまうくらいなら、近くの友人や大切なあの人その人が(わたしはいやだな〜)と思っている感覚を共に持ち合わせていてほしい、持ち合わせていてくれるとうれしい、ってぼんやり考えたりする方がいいんじゃないかと思う。



まあつまり、友人が間違ったことをしていたらしっかり意見する、そしてそれを議論し合える関係で会ったらいいなという、そういう話、でした。なんだろうなあ、ムム?と思っても芸能人に対して意見したりはしないなあ、自分は。だって友達じゃないし。ましてやタメ語で引用リツイートするとかこわいし。あ、いや別にあなたの事を言ってる訳じゃないんですけどね、別に引用リツイートツイッターの正式に使用が認められているものなのであれこれ言いたい訳じゃなく、個人的にね。こわいなあって、知らない人から急にタメ語で来られたら。



と、いうことで。もうかーなーり、文字数書いたのでこれはこれで面白いし、このまま、残しておきます。まあでもこれもね、きっとどこか遠い他人に対して無駄に意見してるっていうことに、なっちゃうんだろうなあ。

0113 お前らは社員の気持ちが分かってへんねん

人よりもいろんなことを経験してきた自負が、ずっと心のどこかにあった。やりたいことやろうとしててすごいね、行動力があってすごいよ、なんで大学辞めたの?大学辞めるって相当じゃない?そんなことをほんとうにたくさんの人たちに言われ続けてきて、いつしか自分でもそう思ってしまっていた。ああわたしはやっぱり人よりも大変な道にいるんだ、みんなが言うように苦しくてしんどいルートを選んでしまっているんだ。大学に進んで卒業して、就職して企業の会社員になっている同期よりも、自分の方が、大学をやめてフラフラし続けてバイトを始めたり辞めたりしている自分の方が、酸いも甘いも苦しいも辛いも経験して、実は賢いんじゃないかと、そうなんとなく、思ってしまっていた。






でも、実際問題まったくそんなことはない。わたしは賢くとも凄くも同期より苦しい人生を歩んでいることもまったくない。あのたこ焼き屋でいつか言われた言葉がずっとひっかかっていたのは、やっぱりそういうことだったのかとハッとする、ようやく。



「お前らはなあ、社員の気持ちが分かってへんねん」



初めてそう言われた時は全く意味が分からなくて首を傾げるだけだった。ハア?社員の気持ち?そんなの分かるわけがない、だってただのアルバイトで、給料も低いし交通費は出ないし何もかも待遇が違うじゃないか。なんかそんなことを言ったような気がするがさすがに覚えちゃいない。でも、もうわかる。今ようやくやっと、理解だけだができる気がする。会社員に、ひとつの会社をともに担う社員という立場にも、いやその社員としての自覚を持ったことすら無いわたしにはそんなものは分かりっこ無いということが、今ならわかる。甘いのだ、結局。わたしは、小さな世界しかまだ知らないから。


井の中の蛙大海を知らず、されど。最近よく聞くことわざだ。今のわたしではまだその『されど』の先には、『されど、空の青さを知る』ことなんかできやしない気がする。大海を知らなくては。いや、空の青さを知ることができるならそのほうがいい?わからない。やらなくちゃ、わからない。憶測をめぐらしてるだけでは何も変わらない。そう理解しているだけでも、もちろん何も変わることはない。




ここからはただの日記。

大阪にもふたたび緊急事態宣言が発令された。2月7日までまた自粛を要請されるとのことだ。期間はおおよそ20日間。イベントなんかはまたバタバタと中止になったり延期になったり営業時間がさらに短縮されたり、たぶん職場もまたなにか影響を受けてしまうんだろう。

はやく、一刻もはやくこんなの、収まってしまえばいい。はやく何もかも心配することなんかなくなって、元の生活に、ではなく新しく、今の時代にしっかりと合った新しさを取り入れた便利で快適でもう誰もなににも怯えなくていい生活が、はやくできるようになってくれたらそれでいい。それにもう、何が正しいのかが分からない世の中になってきている気がする。ぜんぶ嘘のようにも聞こえてしまうし、ぜんぶ正当なことを言っているようにも思えてならない。誰かの言葉に共感しても「ソウジャナイ!」と訴える人がどこからともなく現れてそれもたくさん拡散されて、いいねがついて。何も考えていない人は知らない間に振り落とされてしまっているんじゃないか、それはもしかして自分なのではと、そう思ってしまって、少しだけ怖い。

誰に、傷つけられてるんだろうなあ。今まで自分たちなりに生きてきたこの世界にいる人たち全員平等に脅威が襲いかかってるだろうに、なんで傷ついている人と傷ついていない人がいるんだろうな。いや、こんなことを言ってもこれが正答なのかもよく分からない。とにかくもう、収まればいい。元の生活は望まなくても、好きな店にまた行くことができたりすれば、たぶん、それでいい。あのオムライス屋は大丈夫だろうか。あの宿は、あのパン屋は、あの服屋は、無事でいてくれるんだろうか。どうか無事でと、なにかできることはないかと彼ら彼女らのことを検索するしかできないのが、ひどくもどかしくてたまらない。

1225

年賀状を書いた。でも20枚の無地年賀はがきを買ったうちあまりいいデザインが決まらなくて10枚ほどゴミ箱行きにしてしまい、まだあと何人か出したい人がいるのに書ききれていない。そもそも、の話はもうここではしないつもりでいる。そもそもなんでまだ年賀状を書こうとしてるのか?とか、そもそも年賀状は25日までに出さなければいけない、だとか。25日はそう、もうとっくに終わっている。明日の夜にもう少し書き足して、おそらく27日に出すことになるだろう、これはとても遅い。こうして毎年なんだかんだ遅れてしまうのだが、配達のお兄さんもしくは郵便局の方たちに「ったくなんだよ、まだあんのかよ〜25日までに出せっつってんだろうがよお」と愚痴られながら仕分けされていても文句は100パーセント言えないな、と心の中でいつも平謝りしている。今年もすみません。2日ほど遅れます。お体大事にしてください(お前が言うな)






Twitterにも書いたが、昨日一昨日にやらかしてしまってしばらく引きずっていたミスに対してなんとか解決の見込みが経って安心している。ミスをしたならば改善策を、そして再発防止が基本的だが、今回に限ってはあまり上手い改善策がなかなか考えられなかった。というとも小手先だけの簡単な理論では解決できない、根深い問題だったからだ。いや、もっとしっかり考えれば今までの物もそうだったはずなのでようやっと、と言えばいいだろうか。今はもうそれら全てをもうまくまるっと解決できそうな改善策がぼやん、と浮かんでいる。大事だ。ミスに対して力のありそうな改善策が浮かぶというのは、とても大事な事だと思う。あとはそれを、実践できるかだけ。



とまあ、2020年クリスマス終わりかけの夜にそんなことを考えていたわけだが、そんなものに追われている間にももう今年はもう残りごくごくわずか。2020年はどんな年だっただろうか。また深く振り返ってみて、記録に残すことができれば残したい。そして来年2021年にしたいことを、ざっと書き出すなど、したい。

1206

日付が変わって深夜2時に書く日記も日が変わる前の日付にするのはいつものこと。自分にとって『一日』というのは目が覚めてから夜また眠りにつき、次また目が覚めるまでの間のことを指す。だから、深夜2時だろうが4時だろうが6時だろうが、まだ眠っていなければまだ『今日』となるのだ。いや、6時はさすがに言いすぎたかもしれないけど。



人から言われて「ああ、じゃあやりますよ」とヨッコラセとやるようなことはわたしは続かないと思っている。突然すぎるが、そんなものは一時的で終わってしまうんだろうなとふと今日思ったので今日はそのことについて書き記しておく。



続かないというのはいい意味でも悪い意味でもそうで、続けないこともそうだし、続けられないというのも同じ。物事の初めは人から教わって始めるものだということはもちろんそうなので、他人から言葉を借りて教えてもらい、そこから続けるか否か、続けていくか否かは自分で決めるべきだという話だ。他人の言うことは聞くな、などというそんな極論ではない。勉強に置き換えてみれば分かりやすいと思うが、自慢ではなくわたしは人から言われずとも勉強をし、それを続けるような子供だった。何かを続けていくには、他人の言葉に耳を傾けすぎても、他人と向き合いすぎても、その他人任せにしてしまってもいけない。


何かを辛抱強く続け、それのプロフェッショナルとなっている人はそういう意味で言うと孤独だし、孤独であるしかないんだと思う。誰かにこれをやれあれをやれそれをした方がいい、などと口うるさく言われ、ただそれだけに従い続けて金メダルを取るような選手はきっとこの世にはどこにもいないだろう。彼ら彼女らは自らの感覚とセンスで日々の練習をこなし、己と闘いながらベストを模索しているはずだから。



他人から教えてもらったものを自分で噛み砕き、自分のセンスで自分にあった成長方法を自分で行わないと、きっと人間は賢くなれないし、格好良くもなれない気がする。やればできるのにやらない人は、結局やらない人にしか見えない。飛ばない豚はただの豚だ。そう、ただの豚にしか見えないんだ。わたしはそんなただの豚なんかには見えないように、やればできることはぜんぶやる。仕事はみんなそんなものでできてるんだと思う。やればできることは、やった方が格好良い。明日の自分よ。やればできるなら、今すぐやれよ。やらない豚はただの豚だぞ。

1122

夢を見た。将来の夢では無く、眠っている時に見る夢だ。夢の内容というのは時間が経てば経つほど消え失せていき他の物事を考えれば考えるほどどんどん忘れていく。記憶とは、夢とはなんと脆いものなのか、と少し笑う。最後に自分は唖然と、よく知っているような知らないような部屋の真ん中にすとんと立っていた。




玄関の鍵をよく開けっ放しにしてしまう。鍵を開けて入って、その中に入って後ろ手で閉めることをついつい忘れてしまうのだ。その日もどうやらうっかり忘れていたらしく、締めに行こうと思ったそのまさかのタイミングで誰かの手によって開けられていくのをわたしはこの目で見ていた。開けたのは、隣の部屋に住む女の子。実際に見たことがあるような外見をしていたようにも思うし、あんな明るくてよく喋るような友人は居ないことはいないけど明確に実際の友人だったわけではなかった。



その彼女に何を言われてか部屋に連れられてわたしは隣の彼女に部屋に入り、ぐるりと見回す。角部屋なのか自分の部屋よりもかなり広々としていて、何故か和室だった。キッチンは手前の部屋、奥の部屋には押し入れと真ん中におばあちゃんちにあるような古びた濃い茶色の机、そしてベランダ。彼女は純烈というアイドル?が好きらしく少しだけ話を聞いた。わたしにはなにも分からなかった。聞いても彼女は教えてくれない。



君の部屋はどんなの?という話になって2人でベランダに出ていく。どうやら彼女はベランダ伝いにわたしの部屋を見に行くらしく、その日は実際に三日月(半月っぽくもあった)が綺麗な夜だったからかその光に照らされながらベランダを歩いていく彼女の姿はかなり綺麗だった。月の光でもない、街灯の光のようなものもバッと刺していたように思うが、そこはあまり覚えていない。ただ、ひたすらに綺麗だったことだけがぼんやり記憶に残っている。「小さいね」とでも、言われたんだっけ。たしかにわたしの部屋は、彼女のその部屋よりも確実にせまい。



しばらく談笑していたのかなんなのか、急に彼女の部屋にズカズカと1人の女が入ってくるシーンが出てくる。その女はカウンセラーだとさらりと名乗り、そして今から自分が担当を受け持っているその彼女を部屋から連れ出すらしい。カウンセラー……?となると彼女はどこか悪いのか。何も知らないわたしはもちろん疑問を感じて、するとそのまま表情にも出ていたんだろう。

「あらゆるお金を使い切ってしまうんです。だからベランダに隠したりしているんですが」

そのわたしに、カウンセラーは確かにそう言った。女もどこかで見た事のあるような、会って話したことのあるような嫌に懐かしい風貌をしていたが特定の人物ではなかった。その言葉を聞いて、そしてさっきのおしゃべり具合とは裏腹にゆらゆらと視線を宙にさまよわせながらその女に連れられていく彼女を見つめ、そして冒頭に描いた通りのシーンで夢は終わっていく。




知らない部屋で、愕然と、呆然としていた自分。その部屋を出ていく前の彼女のあのジッと素直に連られて行く姿がしばらく脳裏から離れなくて、起きてもすこしだけ恐怖のようなものがジワリと残っていてさすがに気持ち悪かった。でもゆっくり考えてみても、いや、どう考えてみてもその彼女と実際の自分の状況とを重ね合わせていたとしか思えなくて、ああ、これだから夢は、とも思ってため息を吐く、なんてこともしてみたり。


「生きてるだけで金かかるよねえ」

ふとそんな会話を休憩中にしたことを思い出して、そのせいなのかな、なんてことも思った。生きてるだけでお金がかかる、そんなめんどうな世界で生きてさらに働いている自分はどれだけ偉くて、でも、どれだけどこかの誰かより、うんと恵まれていたりするんだろうか。

0930

もうあと3ヶ月もすれば凍えるような風の吹く冬が来て、いそいそと何十枚とある年賀状に腰を上げ、そうこうしているうちにはもう2020年を終えてしまうらしい。2019年から2020年に変わった時のことはまるで昨日一昨日のことのような気がしているのにな、とおもう。しかしいつの間にか風の心地良さは秋特有の涼やかで穏やかなものとなっているし、たしかにもう腕を半分以上出したまま肌寒い朝を迎えるのはとうてい無理な話ではあるのだ。今年も相変わらず色々あった。年々時間が過ぎていくのはやはり、そして確実に早くなりつつある。



本が好き、読書が趣味、書店に行くことが多い、と周りには言っているものの、去年も一昨年もそうなのだが、実はわたしが1年間に読む本の量はけっして多くはなかったりする。いわゆる読書家だという人は年に100冊を余裕で読んでいたりするであろうところ、わたしの場合はそんなものには到底及ばない。読めて30冊、少なくて15冊程度。1年間のうち、ひと月に2冊、3冊読んでいれば恥ずかしい話、自分的にはいい方なのだ。ちなみに9月はもう終わるが1冊しか読み切っていないし、おそらく8月も1冊2冊読み切っただけかとおもわれる。でも、本が好きなのだ。読書家かというと自分では恥ずかしくて言い切ることはできないが、音楽で言うところの『ライブにたくさん行く訳ではない(もしくはほとんど行かない)タイプ』と同じような感覚だと思ってもらえれば分かりやすいのかもしれない。知識はあって、好きなものに対する情熱とか気持ちもちゃんとあるけど、目に見える形ではそれを(時間やお金、様々な事情によって)表わせないタイプ。わたしの場合はTwitterInstagramで毎日面白そうな本のチェックはしているものの、やはり財布がかなしいかな追いついてくれなかったり、そもそもそんなに毎日まとまった読書の時間をとるタイプでもない。毎日どこへでも本を持ち歩いて、気が向いたら必ずどこでも本が読めるようにしているだけで。……だけで、と書いたが、たぶんそんなに本が好きじゃない人はそもそも『どこでもいつでも思い立った時に読めるように』と本一冊を持ち歩くことは無いのかもしれないな。わたしの場合、読み切ってしまったら心許なくなってしまってだいたい適当な文庫本かなにかを買ってしまったりもする。そしてそういう時の衝動買いは決まって当たりだったりするのだ、どうもおもしろいことに。





10月が始まる。今月は、というか先月先々月あたりからも意識するようにはしているのだけれど、仕事における【数字】をしっかり見て労働に励みたいとおもう。もっと明確に言うと、【売上を伸ばす】【目標達成させる】なのだけれど、10月はそれをより意識下においてなんとか踏ん張りたい。川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』でも書いてあった。仕事に対する姿勢は自分を映し出す鏡なのだと。他人は言いくるめることができるし欺くこともできる、結果は変わることもあるし運だってある、でも仕事に対しては自分は嘘をつけない、仕事ぶりを見れば信頼できるかできないかが一目で分かる、と。わたしも仕事に対しては、精一杯真面目で、一生懸命でありたいとおもっている。10月もがんばろうね。死なない程度に、秋らしく穏やかにね。