晴耕雨読

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忘れてしまうから残す

#検察庁法改正案に抗議します

事実と真実は違うこともあるということを本を読んで改めて知った。何者かによって操作された“真実”のないフェイクニュースをたくさんの人々が信じてしまうのはとうてい嘘と思えない巧妙なものだからなんかじゃない、そこに書かれた“事実”を信じたい、信じていたい一心からだということも知った。100パーセント賛成、反対を得られる意見などこの世にはもう存在しないことなんてもう知っている。誰かのかざす、自分のかざす正義なんてものはひどく脆くてもはや意味なんて無いということももうずっと昔から知っている。「偽善だそんなもの」なんて冷たく鋭い矢が容赦なく飛んでくるということだってよくよく知っている。

知っているのだ、人間なんてものは所詮、とても弱くて弱々しくて、どうしたって自分だけがかわいいと思ってしまうことを。

でもだからと言って他の誰かを不幸にしたり蹴落としたり、そういうことをしてはいけないということを、わたしたちはそれも、ちゃんと学んできたはずだった。「ともだちにされていやだなとおもうことはしちゃだめなんだよ」「人にされて嫌なことはしない」何度だって言い聞かされてきたはずだった。それなのに人は、いつもどこかで間違えてしまう。欲や、情、その他の何かもっとその人にとってとても大事にしたいなにかにうまく惑わされて。それが正解なんだ、それが“真実”であるはずなのだ、と信じたくて。




検察庁法改正案に抗議します』とは書いたが、本当に立憲民主党が“事実”として力強く、熱く話していることははたして“真実”なのか、そんなものはわからないじゃないかとわたしはおもっている。たとえそれが“事実”だとしても、“真実”の中にはその渦中にいる人にしか知りえない隠されたなにかがあるのかもしれない。たとえそれが“事実”だとしても、今そうすることが本当にこの先の未来や将来をよくすることになるのかどうかなんてわたしには想像がつかない。『かもしれない』はたしかに分かる。定年退職の年齢を引き上げることになんてなんの意味もないの『かもしれない』んじゃないのかと。でもそれはただの可能性の話なだけであって、“真実”になんて一生なりはしない。



それでもわたしたちは、この頭で、この手でしっかりと選択しなければいけない、これからだってずっと選択し続けていかなければいけないのだと思う。いや、選択し続けてこなければいけなかったのだ。分からないかもしれない、でも分かろうとしなければ分からない、逆に言えば、一生懸命理解しようとすればほんのちょっとだけでもなにか発見があるかもしれなかったのだ。わたしだっていまだに何も分かっちゃいないよ。社会は苦手だった。日本史も、世界史も、経済もぜんぜん好きじゃなかった、今もそう。流れてくるたくさんの人の意見を読んでも、周りの誰かが発言を始めたって、(分からない、なにがウソでなにが本当なのか、ぜんっぜん分からない)と、選択するのが怖かった。

でもするしかない。分からなくたって自分で「これが正しいと思うから」と自分の意思で、自分の手で判断していくしかないのだこうなったら。たとえその選択した“事実”が“真実”とはもしも異なっていたとしても、たくさんの人間によって選択されたあらゆる選択肢(これを世論と呼べるならそう呼びたい)をもって判断するのは、あらゆる勉学に励み試験を突破し涙ぐましい努力の末に今の立ち位置を獲得したであろう政治の専門家である、政治家たちなのだ。



選択する。わたしは検察庁法改正案に抗議したい。わたしはそれは、してはいけないことだと思ったから。