晴耕雨読

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忘れてしまうから残す

0828 嫌よ嫌よも好きのうち

8月28日金曜日。書いていて、あ、もう金曜日?だなんて、日記か手帳を書かなかったら意外と日付感覚って簡単にずれちゃうんだよな、と考える。昨日の早朝になかなか寝付けず結局部屋を整頓し出した時にはそういえば日記帳が2冊ほどでてきていた。2018年末から2019年にかけてのものと、いま絶賛使うべきものと、だ。後者は2月か3月で更新はピタリと止まっており、白紙のページがずっと最後まで続いていた。


気持ち悪いことを「気持ち悪い」って言えなかったり、ダサいなーって本当は思っているのに「それはダサい」と声を大にしては言えなかったり、わたしはいつもそういう何かに対してマイナスな発言をする時、ちょっと戸惑う。戸惑って、そしてなにもしなかったことの方がたぶん、ずっとずっと多い。その気持ち悪かったりダサいなってちょっとでも思ってしまったものでも、元を辿ればこの世の中に生きる誰かが手を加えたもの。その人のことを思うと、その人のそれらを作り上げるまでの一生懸命さとかを無駄に想像してしまうと、あーなんか申し訳ないかもしれないって、なんかちょっと、そう思ってしまうのだ。それらを無下にしてまで自分の持っている価値観だけで物事を話すのはなんか違う気がして。じゃあ、そこに必要なものっていったいなんなんだろう。何かに対して否定的な意見する時に必要なものはなんなのか。正しい情報?その物事に対する「それは絶対にちがう!」って言いきれる熱意?気持ち?愛情? でも、そもそも、そんな声をあげたところでなにかが変わるの?しんどいだけじゃないの?




好きの反対は無関心だと聞いたことがある。調べてみたらほんとにたくさんの人が同じようなことを、同じような言い回しで話していてわりとびっくりしたのだけど、その中でも驚いたのはマザーテレサも同じようなことを言っていたらしいということだ。『愛の反対は憎しみではなく無関心です』と。これは聖書の中の言葉ではなく彼女自身の言葉らしく、出典は見当たらなかった。でもたしかにそういう点ではある意味、好きじゃない物事以外に対してわたしはほとほと無関心なのかもしれない。無関心でいることの方が、たぶんずっと楽なのだ。マイナスな言葉を吐くのは、大きく声を上げるのは、相当こちら側の気力と体力とを消耗するから。じゃあ、そうしてまでも反発の声をあげるというのはもしかして、『嫌よ嫌よも好きのうち』ということになるのだろうか?それはそれで、ちょっと羨ましく思ってしまう自分もいる。