晴耕雨読

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忘れてしまうから残す

0708 今日起こったことについて考える

梨泰院クラスを見ながらイソがセロイを心配するシーンで「今日顔色悪いね。なんかあった?」なんて言われたことなんてなくないか?わたし。と思った。そんなことを言うと言われたいのか?なんて思われて厚かましく感じられるだろうか。それに「顔暗いけど……なんかあったなら聞くよ」なんて言ったこともない気がする。過去の多くの記憶を呼び起こしてみてもない、かも?そんな気がして自分は相変わらず人を見ていないなと思う。顔が暗いかどうかなんて分からない。明るい顔も知らないから。


(以下、この日に起こったことについてかなり直接的に書いているので辛い人は美味しいご飯食べてゆっくり寝ようね、そうめん湯掻いて好きなだけ薬味用意してつゆと水とごま油入れてグルグル混ぜたらめちゃくちゃ美味しいです、ミョウガっておいしいよね…)














そんなことを昼間に書いて下書きに置いた8日の夜、人が死んだ。


YouTubeで好きな韓国アイドルの新しく更新された動画を見て感嘆の声をあげ、じゃあ次なににしよっかな〜とホームに飛んだ時にオススメ動画かなにかの一覧で彼が死んだことを知った。「えっ、死んだんや」そう声が出た。昼間に既に重症を負ったことは知っていて、でも勝手に回復すると思ってた。2発打たれたとはいえ緊急搬送されて治療もしていたんだろうし……とは思っていた、でもまあそうか、ドラマや映画でも人間は銃という武器で攻撃されれば即死か。とも思いはした、けれど。


少し前にはなるがテレビでよく見ていて、顔も知っていて、なんなら声も知っていて。もちろん直接会ったことはないし好感をめちゃくちゃ持っていたわけではないにしろ一時的には国の政治を担ってくれていたはずの人が、死んだ。


その事実は意外と身近な、リアルな感触として脳の記憶の中にジワジワと時間が経つにつれてこびりつき始めていて、ふとそのことについて考えてみると「芸能人や有名な人間が死ぬと自殺者が増える」というのはこういうことなのかもなとも思った。わたしは黙々と考えるのが趣味みたいな感じで好きで無謀にもこうして考えているだけなのでそんなことは別段するつもりもする予定もないけど、まあ、なくはないのか、となんとなく思いを巡らすことだけはできた。そうじゃなくても人が死ぬのは怖い、わたしは怖い。自分も(そうやってだとかそうやってじゃなくとも)いつかは死ぬのかもしれない、死ぬんだ、とリアルに想像させられてしまうから。その人が死んだのが苦しいのではなく(いや、もちろん生命が失われた辛さは倫理的には持ち合わせているだろうがそれがメインだというわけではなく)、自分もそうやって死ぬのだと、こういうことが起きる度、しっかり考えてみるたび、そう思い知らされてしまうから。



人はもちろん“いつも、いつか死ぬかもしれない”という可能性がある曖昧な存在だと思う。階段を降りている時に後ろから押されたら。自転車を漕いで坂道を降りている時にブレーキが壊れてしまったら。上からレンガが落ちてきたら。誰かに包丁で刺されてしまったら。それでも「今日死ぬかもな〜」なんて思いながら人は毎日を過ごしたりしない。でもこうして人はあっけなく死ぬ。面識があったのかなかったのかは知らないけど、知らない人間にどこで手に入れたか、銃で打たれて死ぬこともある。銃で打たれて死ぬべきではないことはもちろんだろう、だけど、“銃で打たれて死なない”なんてことが100パーセント彼にあったわけでもない(だから警備が居たんだろうし。まあそれがちゃんと機能してたかは知らない、ニュース見てないけど…どうだったんだろ…?)。


ぜんぜん私情の話に急に戻るがわたしは友人の家に居候してるのだけれど、2ヶ月経たないうちにコップを2個割った。最近2個目を割ってしまい、それは友人がプロテインを飲むためにシェイカーの代用品として使っていたものだったからもちろん申し訳なく思っていたのだけれど「まあ割るべくして割ったんだよ。シェイカー買わなきゃなあ」なんて話を彼女はしていて。割るべくして割った。輪廻転生的な話か?なんて考えているタイミングでこんなことが起こって、ちょっとリンクしてるな、なんてことも思っている。いやなリンクだ。

ああそうか、じゃあもうこの世に居ないのか。あの人はちゃんとした政治をしてくれたわけじゃないかもしれない、それでも、ね、辛いね。悪だな。悪な世界だ。人はなるべく死なない方がいいのに。