晴耕雨読

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忘れてしまうから残す

ホワイトデーのお返し

“好き”という気持ちがよく分からない。22年間生きてきて、他人に対して『独り占めしたい』『自分だけのものにしたい』と思えたことも、自分が自覚できている中ではまったくない。「それは嫉妬だよ」だなんて言われても自分の中ではどうもハッキリそうは思えなくて、だってもっと、もっと私が人を好きになったらもっとずっと好きになるはずじゃないか、もっとその人のことでいっぱいいっぱいになると思うんだよ、なんて熱く語ったって何が正解かはわたしに分からなければ誰もわかりはしない。人として尊敬できて、大好きな人たちはたくさんいる。目が合えば嬉しくてつい笑ってしまう人も、もうなかなか会えなくなってしまったからとても会いたくてたまらない人も、会えたならばもう嬉しくて仕方が無いような人も、いる。みんな好きで、みんな会えたら嬉しい。でもそれ以上がない。 ホンモノの“好き”は、きっとこんな軽くてふわふわしているものなんかじゃない、はず。なんて、理想を思い描きすぎなのだろうか。



中学生の頃、男子にバレンタインデーだといってチョコレートを渡したことがある。保育園から一緒、お母さんのこともよく知っている彼はバスケットボール部に入っていて、背も程々に高かった。しゃがれたような声がすごく特徴的で、よくからかわれていたり、それをネタにして皆を笑わせていた印象がある。そんな彼に対して抱いていた気持ちがホンモノの“好き”だったのかと言われるとさすがに覚えていないけれど、でも、3月14日、ホワイトデーにもらったお返しが本当に心の底から嬉しかったことだけはかなり鮮明に覚えている。3色の色ペンだった。家に帰って左手前の引き出しに入れて、何度も眺めていた。何度も眺めたあげく、そろそろ使わなきゃいけないと思って、きっとインクがなくなるまで使い続けたことだろう。これから後にも先にも、あんなに嬉しく思えるプレゼントは、たぶんない。



“好き”という気持ちは相変わらずわからない。でも彼に、あの3色のペンをわたしにくれた彼にいつか偶然どこかで会えたなら、この話をして一緒に笑えたらな、なんてことを思ったりもする。あの時はありがとうって。たぶんね、本当に好きだったんだよ。だからあのお返しもすんごく嬉しかったんだと思うって。だってわたしのためだけに買ってくれたんでしょう?って。そう言えたなら、なんて返ってくるんだろうか。「それはそうだろ」なんて、笑って言ってくれたりするんだろうか。誰かを想って誰かのためだけに選んだものは、きっと、たとえどんな小さなものであろうといつまで経ったってその誰かの心を掴んで離さないものなのだろう。手元にはなくても、こうして記憶にはずっとずっと残っているのだから。