晴耕雨読

晴耕雨読

忘れてしまうから残す

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夜、23時30分過ぎ。自転車のペダルをぐいっとひと踏みする度、今は申し訳ないがなにも覆うことのできない生足へどんどん冷たい風が張り付いていくのを感じながら、なんで自分はいつまでもこういう家までの道のりをたくさん覚えていられているんだろうと頭の空で考えていた。さすがに保育園まで自転車に乗せられ運ばれていた記憶はぼんやりとしかないものの、小学校までの道のり、中学校までの道のり、高校までの道のり、その他よくいくショッピングセンターへの道や駅までの道。昔からの記憶をたどればいつだって行くことができる。迷うことはまったくない。橋を渡ってからの曲がり角を左に曲がればいいことも、大きな十字路を右に曲がりそれからまた左でそして右へ行けばいいことも、駅を出て左でも右でもどちらでも行くことができるということも、自分はいつまでだって覚えている。道だけなんかじゃない、その周りのいろんなことだって。寝坊が多い女の子をいつもインターホン越しに起こしに行っていたあの時間。信号待ちをするという名目で立ち止まって会話を始めたにもかかわらず、いつのまにか10回以上青になったり赤になったりを繰り返していることにどこか気付かないふりをしていたあの場所。優しいけどどこかぶっきらぼうなおばあちゃんが1人で切り盛りしている、部活帰りとして定番だった唐揚げ屋。脳は忘れてくれていたって別にもういいであろうものまでも、いつまでだって記憶に留めておいてくれるようだ。おもしろいなあ。ちょうどたった今、忘れたくないことはすぐにぽっかり忘れさせてしまうくせに。




そんな今日に見たライブのおかげで最近職場と家との往復だけだったことによるいろんな鬱憤が見事に一掃されたように思う。Twitterがろくにできない、インスタを投稿する時間もするりと睡眠の中へと消えていく。なにもない、無がひたすらに続くだけの日々。部屋に入ってひとたび布団にごろりとしてしまえば即寝落ちの日ばかりだった。そうなるともう悪循環だ。その表れとしてどうやら読書も気付かぬ間に停止させてしまっていたようで、やっと再開できたのもつい最近。自分でも驚くことにその中でもここでの日記が書けていないことに一番、ぐずぐずと気持ちを引きずられていたようだった。『アウトプットしなさすぎて気持ち悪いのか、アウトプットできない自分に気持ち悪さを感じているのか、なんだかどっちも同じような意味だと思うのだが、とにかくものすごく気持ち悪い。』から始まって『こんなクソみたいな殴り書きを表に出す訳にはいかない。』で終わる、本当にクソみたいな文章を22日の深夜1時に下書きへ残していた。中身も何も無い。ただ書くだけじゃなくて、自分の書きたいことをちゃんと書き記すことで、いろいろ整理したり考え込んだりするところもあるんだろう。ここは自分にとってよっぽど大事な場所らしい。

ライブに行くことにして、そして行って、観て聴いて汗をかいて、結果的にこの先いろんなことがよりうまく回っていくような気がしている。本当はあまり行く気がなかったのだけれど数日前の自分、ありがとう。さあこのまま12月を駆け抜けて、あっという間に2020年を迎えてしまおう。師走だ師走。風邪をこのまま引かないようにだけ、充分に気をつけたい。