晴耕雨読

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忘れてしまうから残す

作業用BGMとして流すならきっとドミコがいい (11/29 TENDOUJI 神戸太陽と虎 対バン編ラスト公演より)

3XLしか、在庫がなかった。紫色のロングティシャツの3XLの在庫がのこりわずかしかなかった。いや3XLって、なんなんだろう。スリーエックスエル。さん、エックスエル。エックスエルより、スリーサイズ大きいってことだよな、と何度も確認する。なかなか着ない、いやむしろさすがにどれだけわたしがぶかぶかファッションが好きでも躊躇するサイズなのだけれどそもそも人間の着るものになるのか。そうやって結局数日間迷って渋って、迷って、ふとふらりとまたサイトになんとなく顔を出しに行った時に『残り1つ』なんて危うくも書かれていて、それはもう言わずもがな、買ってしまったのだけれど届いたらそれがまあめちゃくちゃいいサイズ感でめちゃくちゃかわいくてたまらなかった訳で。まあ3.5割くらいはそのドミコグッズであるロンティーを着ていきたいがために来ちゃった、みたいなところもあるTENDOUJI全国ツアー 『PINEAPPLE 2019-2020』の対バン編ラスト公演、ゲストはもちろん、3XLなんて興味をそそられしかしないサイズ展開をしてくれていた、ドミコ。わたしは本を読みながらでも音楽を(洋楽だけでなくもちろん邦楽も)ふつうに聞くことができるタイプだし日頃からそうしているのであまり作業用BGMというものにこだわりはないのだけれど、ドミコがきっと最適だと思う。聞いてみてもらえればわかるはず、ツーピースだからこそ生み出せるのか彼らだからこそ生まれるのか不思議で中毒性のある脱力感のようなものが。なぜなんだろうな、彼らの歌詞の中にはさまざまな横文字、つまりカタカナ語がまあまあ出てくるのにそれは全部しっかり“カタカナ語”としての横文字としてちゃんと存在していて、英単語としては全く頭の中で変換されないのも好きポイントの1つなのだけれどちょっと何言ってるか分かんないな自分でも。



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ドミコの何が好きか、と言われると上にも書いたが1番は彼らの楽曲や雰囲気から感じ取れる不思議な脱力感だ。働きアリのなかでも必ず20%は怠け者がいる、よく働くアリだけを残しても必ず20%は怠け始める、そうしてアリの世界もぐるぐると成り立っている、という『働きアリの法則』という話はかなり有名だとは思うが、ドミコはその必ずどこかから湧いてくる怠けたい20%のようなものなのである。なのである、というかライブを見に行って少なくともわたしはそう思った。それは必ず日常のどこかでだとか、生きてる日々の中で「まあとりあえずドミコ聞いとくか」みたいな中毒性にも繋がってくる。もちろん、ドミコの2人が怠けているだとか音楽を舐めているだとか適当に音楽を奏でているだとか、そういうことでは全く1000000%もない。しかしある意味適当だなとも思う。彼らについてインタビューを読み漁っていた時にボーカルのさかしたひかるさんが話していた、ドミコの名の由来が特に好きなのだけれど。


特に意味ないです。バンド名なんてどうせ勝手に略されてダサい呼び方されるんじゃないかと思って、それが嫌で短いバンド名にしようというのはありました。



ふと見つけたバンドやアーティストが少しでも気になったら彼ら彼女らが自分の声から生み出したであろうインタビューやコメントを読むといい。自分の思想や好みに合うかどうかが恐らくそれでわかるだろうから。ややこしいものが苦手で割と直感に従って飄々と生きてるわたしにはもう、言わずもがなすべてが不思議とドンピシャだった。さかしたさんが音楽について思っていること、考えていること、こうしたいああしたいこうやっていきたいこうやっている、どうしている、こう思いながらバンドをやっている、やっていく。全てにおいていいなと思った。歌い方に関していろいろつらつら言っておきながら最後には「ただの癖ですね」と半ばぶっきらぼうにも捉えられかねない言い方をしているのにもグッときてしまったし、さかしたさんの中ではツーピースだということにこだわりは(まったく?)なさそうだけれど、わたしはツーピースだからドミコはいいんだと思うしさかしたさんは生きている、活きるんだろうなとも思っている。ライブの話からまったく逸れてしまった。



ドミコのライブは、いや、ライブ中のドミコはサブスクやCD音源で聞いている“ドミコ”とは全くの別物。なに言っとんねん他のバンドもそらそうやろ、別に収録音源をただ流してライブをしてるわけじゃないんやから、となるかもしれないが、なんといえばいいのか、ライブ中、私が聞いていたのは“ドミコ”であったがしかし、たしかに“いつも聞いているドミコ”ではなかったような気がしているのだ、今でもずっと。真ん中ら辺でゆらゆら揺れながら、時折目までもを瞑りながら楽しんでいたためさかしたさんやドラム長谷川さんのパフォーマンスに度肝を抜かれたわけでもない。お客さんのノリ方が思っていたものと全く違った、というわけでもない、むしろ心地よく、こういうライブの楽しみ方もあるのかと感心した。そこにいるのはドミコなのに、“ドミコ”じゃない。ドミコのあのライブは、ドミコにしかできない。ドミコのライブの中毒性はそこから来るのではないか? もう全く上手く言えなくてライブ中だけでなくこうしてレポを書いてる今もふわふわ浮いているような心持ちになってきたのだけれど、ぜひサブスクだけでドミコを楽しんでいる人、いっぺん聞いてみてちょっといいなと思いつつある人、思ったかもしれない人はもうみんなとりあえずライブを観てほしい。ライブのドミコを聴く。きっとそれだけでこの文章の意味がハッとわかるだろうから。