晴耕雨読

晴耕雨読

忘れてしまうから残す

家族を大事にして、“ちゃんとしている人”にわたしは今でもなりたいらしい

母は、親戚にわたしや兄が今、何をしているかを親戚やばあちゃんに聞かれたら、「そんなんいいやん」と返しているらしい。何をしているかを知らず、何も話すことがないから「そんなんいいやん」と返して、話題を終わらせているらしかった。わたしはそれを叔父から聞いて、知らなかった、と素直に思った。わたしはなにも、いや、そもそも知ろうともしていなかった、と過去の自分を瞬時に振り返る。さらに、良い寿司に連れて行ってくれいい感じに酒も回ったらしいその叔父は、「俺はお前がちゃんとしてるとは思われへん。家族を大事にしてないから」と言う。それを聞きながら、それは、それはなんなんだろうか、どうにもこうにもわたしの口から出てきた言葉そのものじゃあないか、とぼんやり思っていた。家族を大事にしている人間は、ちゃんとしている。でも、わたしは家族を大事にしていないから、ちゃんとしていない。わたしの、“不安”だ、と思った。解決法が分かっているのに何もできない“不安”だ、と。寿司は美味しかった。ゆずサワーはあんまり進まなかった。やっぱりもうビール以外はあんまり美味しく感じないらしい。



去年末、母と様々あり散々に多方面へ迷惑をかけた日があった。わりとまだ完全には笑い飛ばせずそうするならあと5年10年はほしい、いまだにだいぶの後悔と罪悪感しかない日なのだけれど、その時、「なにかトラブルに巻き込まれてる?」と聞かれた、そのことは今でもはっきり思い出すことができてしまう。2022年で1番、と言っていいくらい、はっ、とした言葉だった。すみません、とまだ訳を話せずにいたわたしにそう聞いてくれ、でもわたしはそう聞かれる瞬間まで、母とのいろいろが、母とこれまであった色んなこと、母と自分の間に起こっていることが『トラブルである』と認識したことがなかった。それも一度も。一度たりとも、なかった。「トラブルか」と呆気に取られてわたしは呟いていた。トラブルだったのか、そうか、と。




2月になってから、ずっと読みたかったヤマシタトモコの『違国日記』をLINEマンガで読み始めた。電子は嫌いだったはずなのに無料で読めるとあらば読んでしまうのか、と半ば罪悪感も芽生えつつあるが、まあここで無料で読めなくなったら買えばいい、買う気持ちは充分にある、なぜなら本が好きなのだから、と自分で自分に言い訳してみる。そんなことを考えながら左へ、左へ、指を動かして読みながら、日記について話す主人公たちのセリフは、思ったよりスーッと脳内に滑り込んでくるもので。


「日記は 今 書きたいことを書けばいい
書きたくないことは書かなくていい」

「本当のことを書く必要もない」

「書いていて苦しいことをわざわざ書く必要はない」



自分はどこか、日記は“本当のことが書かれている”から好きなんだ、美しいんだ、綺麗なのだ、と思っていた節があった。でも思い返せばわたしだって『書きたいことを書』いていて、『本当のことを書』き切っていなかったりもするし(ウソを書いているとかではなく書きたくないことをしっかり避けて書いている、みたいなニュアンス)、『書いていて苦しいことをわざわざ書』いてたりなんかもしていなくて。傍から見たら苦しんでいるように思えるかもしれない上に書いた話も、たしかにどこか苦しさもあるのかもしれないけれど、そんなに苦しくなかったりする。書くことができている、というのはそういうことだったりするから。



頭につけたワイヤレスのヘッドホンからはお気に入りに追加した曲が順々に流れていて、3日4日前からずっとこの曲順で聞いているなと思い返すも、なにもしない。給料が入ったら大人買いしようか、まだまだ読み返したい言葉が沢山あるような気がする、この本には。そうして今日も無の心で渋谷の人混みにまぎれていく。母のことなどぽっかりと忘れて。