晴耕雨読

晴耕雨読

忘れてしまうから残す

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バイト中、晴耕雨読という四字熟語がふと頭に思い浮かんできた。私は漢字が好きだ。漢文も大好きだった。無くすなんてもったいないとは思わないが、ただ、ああ好きだった好きだったとふわりふわりと思い出す。係り結びの法則を見つける度にやにやでもしていただろうか。センター試験はわりといい点を取れたような記憶があるけどどうだったろうか。不必要だとつっけんどんに言う人があれば必要だと熱意を持って訴える人もいる、好きだなと思ったものが見知らぬ誰かにけちょんけちょんにけなされている、そういうことがありすぎるこの世の中でなにが良くて、何がだめで、なんて100パーセントの正解は100パーセントないんだろう。矛盾しているけれど、ないと思う。なにをやったって、「そんなの無理だって」と笑う人はどこかにいる。生きろと言われたり、死んでもいいよと言われたりする。今読んでる本で死生観が少し変わりそうなので、これもまたちゃんと文字にしておきたい。



晴耕雨読の意味を調べると『晴れた日は、田畑を耕し、雨の日は、読書にいそしむこと。世俗から離れた悠然とした生活や、田園での老後の静かな暮らしをさすこともある。』とあり、おっなんかええやんと思ったので定まりきっていなかったこのブログのタイトルにした。晴耕雨読。四字熟語をぼんやり見ていると中学校の階段の小さな壁のような場所(調べると『蹴上げ』というらしき部分)にぺたぺた貼られていた、階段を上るたんびに目に入ってくる、「え、そんなスペースにまで貼る?」と毎回思っていた四字熟語集を思い出す。一期一会はよく目に入っていた。もうひとつなにかよく、よくよく目にしていて自分が好きだなと思っていた四字熟語があった気がするのだけれど思い出せない。こういう時の記憶は面白くて、本当にその部分だけがぼやけている。なんだったんだろうか。なんだったんだろう。と必死に思い出そうとしている自分を「めちゃくちゃどうでもよくね?」と客観的に見てる自分がいる。今日は天気がいいので出かける予定だ。いつぞやか、畑仕事がしたいなと思っていた時期もあったような、なかったような。