晴耕雨読

晴耕雨読

忘れてしまうから残す

0819

今まで最後まで読めずにリタイアしてしまった本は1冊だけ。あのかの有名な夏目漱石の『吾輩は猫である』だ。長すぎて長すぎて、もう見るからに分厚すぎてなんだが文体も読みにくいし、字間も行間も詰めに詰められているし、そうすると集中力が欠けてしまい内容も入ってきやしない。でも読んでみようと買った手前一応100ページほど格闘し、その後ソッと何事ももなかったかのように棚に戻された。それはしばらくそこに放置されたのち、荷物整理の時に古本として売りに出されている。まあそれはそれで中学か高校か、それくらいの頃の思い出として心の中に残っているためこうして今でも鮮明に思い出せている訳だが、悔しい!とか、いつか読み切りたい!という気持ちがない訳では無いのだけれどそれよりも、純文学を好きだと、好んで読んでいる、という人は凄いなと率直に思う、その気持ちの方が強い。

たしか「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」の冒頭で有名な谷崎潤一郎の『雪国』もだいぶ苦労して読み終えた(と思うのだけれど定かではない)記憶が脳内には存在している。太宰治の『坊ちゃん』も同様だ。

凄いなとやっぱり思う。「本が好きなんです、読書が好きで」と話している内心(純文学も読む人なんだ!って思われたらどうしよう全然読まれへんのに……)なんてことを思ったりもしているので、私が純文学の面白さに気づくことができるのは、もう少し後なのであろう。これまでも何度もシックな表紙に包まれた純文学たちを本屋で見かけてきて手には取ってみるものの、今はソッと、棚に戻している。