晴耕雨読

晴耕雨読

忘れてしまうから残す

0919 女が女を応援する理由

バイト先にアイドル好きの人がいる。ちなみにその人は今日19日に誕生日を迎えた。おめでとうございます。あまり人の誕生日を覚えられないので、きっと来年には忘れているとは思うけど、やっぱり人に生まれた日を祝ってもらうのってうれしい気分になる。その人はとても優しい。ちょっと頼りない部分もあるけどたのもしい時ももちろんあって、見た目はわりと好青年なのにやっぱりどこか変で、そして、男性である。世の中的にはそれが“普遍的”であるらしい。男は女が好きで、女は男が好き。魅力を感じるのも男は女に対してであって、女は男に対してだ、と。聞かれたことがある。「女の子が女の子を応援する気持ちってどんなの?」それにわたしはあまり、上手く答えられなかった。応援している彼女たちのことが好きなはずなのに、それを言語化出来るほどのものが思いつかなかった。



NiziU(ニジュー)にハマり出したのはいったいいつごろだったろうか。テレビでの放送(ちなみに再放送されているものを今見ている)もいつの間にか終わっており、朝の情報番組スッキリで追いかけていたのであろうタイミングと終わっていた頃にわたしは唐突にHuluでNiziUが生まれるまでのオーディション番組に夢中になっていた。なにがきっかけだったかはもうあまり覚えていないが、Instagramの検索欄をよく見ていたらチラホラと流れてきて、それだったら見てやろうじゃないか、というのが始まりだったようにおもう。ただ単純に、おもしろかった。楽しかった、彼女たちひとりひとりが少しずつ少しずつ成長し、かっこよくなっていく様を見ていくのが、ほんとうにすごく楽しかった。夢を追いかけてここまで来ている姿が、とても逞しく見えて、輝いていた。


そしてなにより、誰一人として可愛く見えていたのである、わたしの目には。踊って、歌って、練習して、怒られて、泣いて、笑って、また踊って、歌って、少しずつアーティストに近づいていく彼女達が、眩しくて、可愛くて仕方がなかったのだ。



今はNiziUのオーディション番組でもたびたび曲が使われていたITZY(イッジ)を好きになり、通勤までの電車の中や休憩中にもよく聞いている。ガールクラッシュでクールな雰囲気がとてもかっこよくて、『ザ・強い女』というわたしのもともとの好みを思い出させてくれた。自分をしっかり持った、相手に流されない強さを持った女がわたしは本来とても好きなのだ。ITZYは曲調といいファッションといい、全面的にそれが押し出されていてとても美しい。彼女たちのようになりたいとさえ、思ってしまう。


ああ、そうかもしれない。女が女を応援する理由のなかにはそういう「彼女たちのように自分も、」という感情が、少なからず存在しているのかもしれない。でも本来、『好き』という単語の中に理由などいらないのだ。何に惹かれたのかという明確なものがあったとしても、彼女たちは変わり続けるのだし変わり続ける・進化し続ける彼女たちでさえ愛しく思ってしまうのだろうから。「なんかわかんないんですけど、すきなんですよねえ」わたしはまた、こう言うしかないのだ。なんかわかんないけど。

0828 嫌よ嫌よも好きのうち

8月28日金曜日。書いていて、あ、もう金曜日?だなんて、日記か手帳を書かなかったら意外と日付感覚って簡単にずれちゃうんだよな、と考える。昨日の早朝になかなか寝付けず結局部屋を整頓し出した時にはそういえば日記帳が2冊ほどでてきていた。2018年末から2019年にかけてのものと、いま絶賛使うべきものと、だ。後者は2月か3月で更新はピタリと止まっており、白紙のページがずっと最後まで続いていた。


気持ち悪いことを「気持ち悪い」って言えなかったり、ダサいなーって本当は思っているのに「それはダサい」と声を大にしては言えなかったり、わたしはいつもそういう何かに対してマイナスな発言をする時、ちょっと戸惑う。戸惑って、そしてなにもしなかったことの方がたぶん、ずっとずっと多い。その気持ち悪かったりダサいなってちょっとでも思ってしまったものでも、元を辿ればこの世の中に生きる誰かが手を加えたもの。その人のことを思うと、その人のそれらを作り上げるまでの一生懸命さとかを無駄に想像してしまうと、あーなんか申し訳ないかもしれないって、なんかちょっと、そう思ってしまうのだ。それらを無下にしてまで自分の持っている価値観だけで物事を話すのはなんか違う気がして。じゃあ、そこに必要なものっていったいなんなんだろう。何かに対して否定的な意見する時に必要なものはなんなのか。正しい情報?その物事に対する「それは絶対にちがう!」って言いきれる熱意?気持ち?愛情? でも、そもそも、そんな声をあげたところでなにかが変わるの?しんどいだけじゃないの?




好きの反対は無関心だと聞いたことがある。調べてみたらほんとにたくさんの人が同じようなことを、同じような言い回しで話していてわりとびっくりしたのだけど、その中でも驚いたのはマザーテレサも同じようなことを言っていたらしいということだ。『愛の反対は憎しみではなく無関心です』と。これは聖書の中の言葉ではなく彼女自身の言葉らしく、出典は見当たらなかった。でもたしかにそういう点ではある意味、好きじゃない物事以外に対してわたしはほとほと無関心なのかもしれない。無関心でいることの方が、たぶんずっと楽なのだ。マイナスな言葉を吐くのは、大きく声を上げるのは、相当こちら側の気力と体力とを消耗するから。じゃあ、そうしてまでも反発の声をあげるというのはもしかして、『嫌よ嫌よも好きのうち』ということになるのだろうか?それはそれで、ちょっと羨ましく思ってしまう自分もいる。

真面目でありたい

本を読んでいる時に近づいてくる蚊を、なんとなくいつもみたいにはできなかった。その代わり、電池がもう少しでなくなるらしい小さな電気式の蚊取り線香をつける。週末から来週にかけての関西はずっと雨らしい。網戸にしたままの窓から聞こえるやけに騒々しいその音も、日付が変わる頃には少し収まっていてポツポツとした音からは風情も感じられるが、やはり雨は、好きにはなれない。



わたしは自分をすごい人間だとは思わない。仕事ができる人間でも、勉強ができる人間でも、知識がある人間でもないと思っている。ただ本が好きで、美味しいものも大好きで、特にオムライスがすんごく好きで、インスタグラムで美しい姿のそれを見つけてはおおいに歓喜して行きたい店としてGoogleマップにメモをしておく、それくらいの、ただの自由に生きる23歳だ。でもどうだろう。真面目であるということに関しては性格上認めている、というよりは『人間は真面目であるべき』『真面目であることはいいこと』と思って幼少期から過ごしてきたため、その辺は崩すことができず、なんにでも「真面目だから」とくっつけてしまう癖がついているようにおもう。仕事ができるね、物覚えがいいよね、と言われても「やっぱり真面目なんで!」と言うしそう思うし、もしアルバイトの人数を今よりも減らすとしたらという話で私は残った方がいいと言われれば、「まあ、真面目ですからね〜」と、またわたしはきっと言う。



自分は真面目な人間だ、というよりは、いつだって自分は真面目な人間でいたいのだ、という気持ちの方が強いのかもしれない。やはり人は、そう簡単には変われないのだから。真面目すぎる、と今の職場では言われている。そりゃあヴィレッジヴァンガードだ。遊んでなんぼ、賢くふざけてなんぼ、の世界だろう、初めの頃はそれこそ、やっぱり真面目すぎるのはだめなのか…こんな真面目人間じゃ面白いことなんてできやしないのか…? と悩んだりもしていた。でも最近は開き直ってやっている。真面目がなんだ。真面目のなにがだめなんだ?真面目だけど真面目にやんないとおっちょこちょいとどんくさいの部分がすぐに出てやらかしちゃうんだから真面目にやんなきゃだめなんだよわたしは。真面目に、誠実に、面白い事をやってみせる。わたしの出来うる範囲で、わたしの好きなもので、やってみせる。と意気込みつつも、まだうまくなにも、掴めてはいないのだけれど。

0627 馬鹿は風邪をひかない

なんでなんだろう。めちゃくちゃ元気だとずっと思っていた。ご飯があまり食べられていない、食欲不振だなんだと他人の目に触れるところでは言いつつ、とはいえ別に普通に食べてるっちゃ食べてるし、睡眠不足、っていうほどぜんぜん眠れないわけではないし、と、ずっと思っていた。「最近冷たくない?全然話してくれへんやん」とバイト先で言われても、ついこの間に飲みに誘ってくれた先輩に何度も何度も「元気ないやんけ。どうしたん」と言われても、「いやいや!そんなことないですよ!」とか、「いや〜梅雨なんで調子悪くて〜。仕方ないですねこればっかりは(笑)」などとヘラヘラ笑って言っていた。だってその時は本当にそう思っていたのだ。梅雨だし、低気圧だし体がだるくなるのは仕方の無いことだし、給料が低かったのはたしかに相当ショックではあったけどそんなの私だけじゃないし、むしろわたしは実家があるからまだまし!そんなことより先輩たちの方が、と、本当にそう思って、まったくなにも、疑いもしていなかったのだ。


でも違った。これは完全に“疲れている”。いや、「もう、つかれた」。そう呟いたら一気に気持ち悪いくらいに涙が出てきて、そこでやっと、ああそうか、と理解する。わたしはどうも、ずーーっと突っ走りっぱなしだったらしい。なんかしんどいなと思い始めたのは6月の頭くらいからだったから、この1ヶ月ずーーっと、わたしは自分で自分の首を締め続けていたらしい。馬鹿はわたしだった。『馬鹿は風邪をひかない』を地で行く人間がまさかこんなところに、いやまさか自分だったとは。それに、先輩たちの方がわたしのことをちゃんと見てくれていた、ちゃんと異変に気づいてくれていた、そのことを理解できなかったことが情けないなと思う。そして、すごくすごく、申し訳ない。差し伸べられていた手を、ずっとわたしが握ろうとさえもしていなかった事が、ものすごく、ほんとうに、ものすごく。




馬鹿は風邪をひかない。でもずっと気づかないわけじゃないだろう、いつかは「あれ?やっぱりなんかおかしくない?」と気づく、気づいてしまう。ただ、気づいた時にはもう既に重症なのだ。最悪のパターンまでいくとすると、たぶん、まあ私の憶測なだけだけど、そうやって『いつのまにか蓄積させてしまったストレス』で人は死んでいくんだと思う。馬鹿は風邪をひかない、なんて言うことわざこそ馬鹿にはできない。今、この取り返しのつきそうなタイミングで気づくだけ、気づいただけわたしはたぶん、そこまで馬鹿じゃない、のだろうか。いやまあ、そう思いたいだけみたいなところもある。でもよく良く考えれば予兆のようなものは沢山あったんだよな。3食まともに食べていないし、2時3時に起きてることなんてザラだったし、最近どうも部屋を片付ける気力が全くないし、最近はこまめに洗濯物を回さなくなっていたし。え?そりゃあ疲れてるだろ、馬鹿なの?と今の自分ならそう思うが、気付かないというより、なんだろう?『気付きたくなかった』の方が近いんだろうか。わたしは大丈夫だから、と、わたし自身を安心させて、たくさんの仕事をこなしたかったんだろうか。いやなんかもっと、なんかもっとしっくりいくものがある気がする…。

こうやって相変わらずちゃんと理解できていないから、この先もきっと何度もこの壁にぶち当たってしまうんだろうと思う。今までも何度もそうだった、うん、馬鹿だなほんとに。ずっと元気がないことを心配してくれていた先輩の言葉を借りると、「お前は真面目に見せかけた馬鹿」。いやー全くその通りです。頭があがらないな。ま、とりあえずね、ちょっと休憩しようよ。気づいただけえらいんだからね、わたし。

0619

毎日店のことを考えている。本屋にいる時も、本を見ている時も、ツイッターをだらだら巡回している時も、インスタグラムの検索欄をスクロールしては気になる投稿をクリックしている時も、なにげなく。でも考えれば考えるほどわからなくなっていく気もしている。考えれば考えるほど、色んなものを吸収すればするほど、自分がほんとうはなにをどうしたいのか、ふやふやと、水面に浮かんでは消えていくように、ふやふやとしていく。もっと時間があればいいのに。もっと時間があれば、あの棚をどうにかしたり、いいなと思う本を入荷させてまるまる中身を入れ替えたりできるのに。3ヶ月くらい前の自分と同じことをそう今も思ってしまう。でも時間があれば、と思っている時に思いつくそういうのって、おもしろくないんだよ、たぶん。時間がなくてもやりたいことは無理やりやったりするんだから。やらなきゃいけない最低限のことを早急に終わらせて時間をつくったりするもんなんだよ。だから、時間のせいにするのは、よくない。暇がないからやりたいことができないっていうのは、なんか違う。



定期券を仕事が終わってから最寄り駅で買った。SuicaICOCAも持っていないので磁気の定期券で、1ヶ月分の1万ちょっとのやつ。高い。安いわけはない。が、ちょっとうれしい。もちろん勤務日数が増えた訳では無い。7月もきっとこの6月と変わらないままなんだろう、期待するだけ落ち込むので期待はあまりしない。だから、よく行く谷町六丁目天王寺でも降りられるように『う回』付きの定期券にしてみた。これで仕事じゃない時もあんなちっちゃな切符を買わなくてもぶらっと降りることができるのだ、なんてことだ。天王寺に新しくできたスタンダードブックストアにだっていつでも行けてしまうし、谷町六丁目の好きなカフェにもいつだって。こんなうれしいことはない。懐があったかいというのはいいことだ。お金はなんて大事なものなんだろう。今月の給料はさすがに今までにないくらい低くてだいぶショックを受けたが、起こってしまったことはもうしょうがない。わたしはこうやってちっちゃなうれしさを噛み締めて、仕事に前向きに生きていく。明日も日記を書ければ書きたいなとおもう。