晴耕雨読

晴耕雨読

忘れてしまうから残す

本を買うということ

いつだったか。図書カードをもらえたあかつきにはとてつもなく喜び、はしゃぎ、なにを買おうか心を、胸を、ウキウキと踊らせていた時期があった。(たぶん)小さな頃から本を読むことは好きだったから、それはとても貴重なものだった。なにかいい事をしたり、なにかの区切りの時にしか貰えない。しかもそれを使えば本が買える。魔法のようなカードだ、と思っていたとおもう。

 

図書館が身近にあるためそこでなんでも読むことができる。もしくはスマホでポチッと押すだけで本を買うことができる。読むこともできる。雑誌なんかはもっぱらスマホで読むことにしている。

なんでも、スマホさえあればなんでもできてしまうこの時代。本なんて買えなくなる時代がいつ来ても、きっと対応は何かしらの方法でできてしまうのだろう。そんな気がする。

 

ついこの前の話。図書カードを貰ったから本屋に行って、そしてなにを買おうか。なぜか、とても迷ったのだ。なにを買えばいいのだろうか、と悩んでしまっまのだ。なにを買えば一番自分のためになるのか、どんな部類のものを買えばよりよい自分になれるのか、よりよい図書カードの使い方ができるのか。答えなんてものは、出なかった。読みたいと思った小説を棚に戻し、本屋を飛び出す。リップヴァンウィンクルの花嫁は、ずっと読みたかったのに。

 

気持ち悪かった。こんなことを考え込んでしまう自分が。

 

「本買うって、そんな悩むことやっけ」

 

もう外は暗い。夜だった。

 

欲しい本があって、読みたいと思って、買う。ただそれだけだった気がする。図書カードをもらってとてつもなく嬉しくて、これで欲しい本が買える!何買おう!とウキウキするはずだった。なぜなのか。

 

初心に帰りたい。なにが、どれが自分のためになるのか、では、きっとない。どれも、自分のためになるはずなのだ。どこかに住む誰かがペンを持って(あるいは画面の前に座って)、それを作り、編集し、また考え、また編集し、ようやく出来上がったそれなのだから、無駄になるわけがないのだ。面白いか面白くないかは、自分が選んで買おうと思ったものなのだから、面白いはずなのだ。

 

「これで好きな本を買ってください」

 

図書カードをくれたその人はそう言わなかっただろうか?「勉学に励んでください」とか、「大切に使ってください」なんてことを、ひとつでも言っただろうか。

 

本を買うということは、いや、なにかを買うということ自体はそれに対する出資であり、自分に対する出資だ。その出資は確かにこの先なにかに響くかもしれない。でもその度に未来のことなんて考えても、きっとろくなことはないんだろうな。

 

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