晴耕雨読

忘れてしまうから残す

1119 うれしいことばかり抱えてはいられないものでして。

今、これが万が一にでも叶ったらもうめちゃくちゃ嬉しくて嬉しくて、もうたまんなくなっちゃってついには泣いてしまうだろうな、と思うことが心の中にいくつか存在している。書店に自分の本が並ぶ未来が来ることもそうだし、小説家として生きていけたらいいのにな、なんてことも思ったりすることもその一つだ。でも、そういうのは(仮にも今の時点では)めちゃくちゃただの空想上の夢物語で、万が一にでも、と言っているくらいだからほぼ叶わないのだろうなと諦め半分で考えている。でも、もし。ほんとうにもしもそうやって泣いてしまうかもしれないくらいそういううれしいことが起こってしまったら。そうなったらわたしはそれを、素直に、純粋に、なんの邪神もなく遠慮もぎこちなさもなく、果たして受け取れるのだろうか。うれしい、と、なんの混じり気もない心からの涙をこぼせるのだろうか?うれしいことって、うれしすぎたり重なりすぎたりするとなんだか怖い。自分の身の丈に合わないうれしさを与えられた時、それは神様かなにかによる手違いなんじゃないかと、受け取ることを躊躇してしまう気が、うっすらしている。




10歳差の友人がいる。わたしは今年で27歳だから、彼女は37歳で、来年の8月に38歳になる。もともと彼女と共通の友人が1人いて、出会った当時、その共通の友人と彼女はシェアハウスのルームメイトだった。わたしが鎌倉にいた時に出会い、鎌倉に居たのは2019年とか、になるので早いものでだいたい4年5年は友人でいる計算になる。箱根へ旅行に行ったことはかなり記憶に新しい。3人で泊まることはその時は諸事情により一人欠けてしまって叶わず、その後に岩手に行く計画も立てていたがそれはわたしが頓挫させてしまい、とことごとく上手くいかないでいたのだけれど、でも、ついに12月。3人で大阪にあるユニバに行くことが決まった、しかもついに昨日の話だ。まあほんとうは、心根としては、引越しでめちゃくちゃにバタついていて全く大阪になんか行っている暇は、毛頭ない。でも、行きたいんだもん仕方ない、仕方ない……、とシフト表を見ながら天井を仰ぐなどしている。楽しかったな、と思い返す。1年振りくらいにその10歳差の友人の家に遊びに行き、泊まり、2人ともKーPOPが好きなのでいつもYouTubeで検索しては踊り、歌い、話し、笑い、また踊って、歌った、そういういろんなことを思い出しながら毛布にベットの上で無理やりくるまる。楽しかった。仕事帰りに向かったらチーズ入りのキムチチャーハンとスーパー出来合いのエビフライとイカリングがあって、わかめスープかあさりの味噌汁かを選ばせてくれたこと。先に風呂に入ったのかと勝手に思っていてシャワーを借りたらまだで、「めちゃくちゃ自堕落だよわたし」とあっけらかんと言っていたこと。夜は元彼にもらったとかいう敷布団をわざわざひいてくれ、その上に柔軟剤のいい匂いのする毛布をこれまたひいてくれ、お父さんに買ってもらったとかいうふかふかの羽毛布団まで貸してくれたこと。いつもロフトで寝る彼女。寒くない?と何度も聞いてくれ、暑がりやから大丈夫やで、暖房も消していいよ、と言っていざ眠りにつこうとしたら暑いくらいにあったかかったこと。10時に一応かけるか、とかけたアラームを2人して聞いて2人して一旦起きたが、12時までまた2人して二度寝していたこと。幸せだった。会いたい人に会いたい時に会えて、笑って、美味しいものもたくさん食べて眠くなったらぬくぬくとした布団にくるまりながら眠れて。これでいいんだよなあ、と思いながら深夜の2時半にスマホを見るのをやめて眠ったのも良かった。楽しかったし、うれしかった。そういう幸せを感じられることがうれしく、喜ばしく、暖かく、だからまだ生きてるんだよなとよくよく思い返している。





うれしいことが重なりすぎるとやっぱり怖くはなる。まだまだがんばらないと、だめなところばかりで何に対しても上手くやれてなさすぎるのにそんな自分にこんなに喜ばしいことばかり降り掛かってくるのは不相応じゃないか?そう思ってしまってそのうれしいと思ってしまっているその感情ごと、上手く受け取れなくなることも、やっぱり時々ある。これを書いている日のさっきの夜もうれしいことばかりだった、じゃあこのうれしいことは自分の今まで行ってきた何の、どの言動に対しての報奨なんだ?と考えてしまったりもする。自分なんか、は、なるべく言いたくはない。こんな自分でもちゃんと好意を持って仲良くしてくれている、そういう人たちのそういう感情を無下にしたくはないからだ。でもじゃあわたしのこの不安はどこへ行くのだろうなあ、とも思う。思うから、ここに置いて行ければいいか、と、だから書くんだろうなとも思っている。なにも、怖いと思うことは悪いことだけじゃない。怖いんだよなあ、と思いながら、その気持ちとなんとか上手く折り合いを見つけていきながら、生き、暮らしていくだけだ。


カーテンの隙間から漏れ出る光がもう薄い青色をしている。少しだけ、ほんの少しだけそれをまぶしく思って寝転びながら無理やりそれを見えないようにする。あと3時間だけ眠ろう、今週も頑張れそうだしな、と独りでに軽く笑ってわたしはゆっくり目を閉じて、その日は眠った。

1109 HEARTSTOPPERと躁の日々(シーズン3 第4話 ネタバレ有)

カレンダーとして使っているシフトアプリや、特にインスタのストーリーのアーカイブカレンダーを見て、なんにもしていない、今はほぼ毎日上げているストーリーもひとっつも上げていない数ヶ月間のまっさらなカレンダーを見て、ときどき怖くなる。未来を憂いているとかそういう先の話ではなく、もう本当に明日、明後日、明明後日、それくらい近いいつかにまたそうなるのではないかと。でも怖いと、そう思えているということは今の日常を無くしたくないとちゃんと思えているということでもあって、それはきっと心の余裕としてはいい方向に働いてくれるんだろうな、とほっとしていたりもする。躁だ、と自覚するのはいいことだ。そう自覚して、いろいろ意欲的にやりすぎていたとしても俯瞰的にそう、ちゃんと自分なりに思えているならたぶん良い(まあぼんやりそう思っていて、友人に「躁鬱やね」と言われてはっきり自覚させられた、みたいなところもあるが…)なにも分からない、理解できていない感情に押しつぶされていないのなら、そういうことなら人間はしっかり対処できる賢い生き物だから。人間は、というか、自分ならやれるだろうとも思っている。まあそれが過信だという話もあるっちゃあ、あるのだけれど。



HEARTSTOPPER(ハートストッパー)を着実に観ている。今はシーズン3に入っていて、進学やら進級やらのイベントごとを添えてゆっくりゆっくり、と日常が進んでいっている、それがハートストッパーのいいところであり相変わらず好きなところなのだけれど、しっかり摂食障害強迫性障害のこともかなり詳細に、それでいて確実にまるで此方側に優しく教えてくれるかのように鮮明に描いてくれていて、やっぱいいよなハートストッパー、こんだけメンタルヘルス的展開を丁寧に書いてくれるもんなんだもんなあ、と4話まで見てぼんやり感心している。数ヶ月間入院することになったチャーリーがニックに連絡をしたいけど「元気な姿で連絡しないと心配させてしまう」と躊躇するところも、カウンセラーからの質問になかなか歯切れよく答えられないチャーリーの表情もリアルで、でもリアルだからこそ、救いがあるような気もしている。まだこの先厳しい展開が100パーセントないとは言いきれないけど、相も変わらずチャーリーにニックが居てよかったと思ったし、ニックの周りの大人も良い大人が多くてよかったなあ、とすごく思っている。ひとを想う気持ちは強く、逞しく、やはり人間が生きるに当たってそういう感情は必要なものであり、あればあるほどいいものなのだろうなとよくよく思う。






物語の中で、チャーリーが日記を書くようカウンセラーに言われ、ニックもその時に同じくして、日記を書けばいいと友人に言われるシーンがある。ただ書けばいいのよ、と、書き残すだけでいいのよ、と。そのシーンを見て、わたしもずっと、書いて、考えて、暮らし、生き続けてきたんだよなと思った。自分の思考を引っ張り出しては殴り書きして、書き直して、苦しい、と思う日々を何度も乗り越えてきた。逆に無理だったなあ、と思う、なんにもできなかった時は書くことも本を読むこともままならなかったから、きっと人間の、わたしの脳と心の構造的にはそうなっているんだと思う。


日記を書くこと、本を書くこと、書き続けること。書くことにはそれだけパワーがあって、やはりどこかセラピー的ななにかがあって、だから人は書くし、小説もこの世には死ぬほどあって。ニックとチャーリーが、ニックとチャーリーだけにならないで良かったと思う。2人だけでは解決できないこともあるのよ、と言う大人の言葉を2人ともがうまく、すんなり受け入れてくれてよかった、と思う。人に依存しすぎることはときどきすごく怖い。わたしもそれは怖いなと思っているし、それでも、依存したい、してしまうかもしれないと思えるくらいの人がいることは素敵なことでもあるということを知ってもいる。



苦しい時こそ書く、悲しいことこそここに書いて残すのはわたしとしてはただ自分のためなだけだけれど、悲しいを置いていく、そんな日記を書いたことをなんとなく思い出しつつ、でも別に悲しいことばかりを書いていたとしてもそれでも、そういう日々の中にもちゃんと嬉しく、ちゃんと楽しかったなと思えることが幾つもあることは自分の中でしっかり噛み砕いているから大丈夫だと、そういうこともたまには書き残していきたい。明日も明後日も、そうやって日々を過ごしていくだけである。書きたければ書く、そういう日々を。今年はあと何本書けるんだろうなあと、ぼんやり思い、考えながら。




(ついでに2年前にもハートストッパーについて書き話してた分があったので貼っておく。文章がなんか…若い?かも。2年前だもんなあ…)
tumzum.hateblo.jp

1031 今年も終わるし軽音部は凄い

『20年後にこの3ショット撮ろうな』ため息もそこそこに疲れ果てていた仕事終わり、その文面がスマホを開いたらすぐに目に入ってきて、なんだ?と思う。誰かの20年後に当たり前に自分がいる、いるんだなあ、とそうなんてことなく思われていることがよくよく信じられないでいた。20年後は27歳のつまりは47歳で、そう考えるとそれはやっぱりとてつもなく長くてだいぶ未来の話で。でも、いるんだよなあって、ちゃんと不思議だったし、いたいけどなあと思ったし、でもちゃんと、ちゃんとずっとうれしくもあった。その3ショットには友人の2歳半くらいになる子供ちゃんも映っている。ピースがやや下手で顔が歪んでしまっていることにまた愛おしさをしかと感じて、20年後ねえ、と思う。あとたぶん、その場で「お酒飲めるようになったら飲もうな」みたいな話を自分でもしていた記憶があるからきっとそれもあるだろうけど、でもじゃあそれが叶うころにはいったい自分は何をしているんだろうか、というのはさすがに考えてしまうなとは思う。想像すらできない。相変わらず大学生に間違えられるしふらふらしているし、定住することに若干やっぱりどこか面白味を感じないというか縛られるということに本当に少しもそそられないでいるし。それでも、離れたくないかもなあと思うくらいには好きなんだよな、と思う。結局関東に帰ってきてなんとか結婚式には出席しようと頑張ったのも、だからなんだよなあとはぼんやりした頭でもしっかり思う。10月は特にそれを体現してくれたようなひとつきだった。今の環境がずっと続けばいいし、続けていけるようになんとかなんとか…ってひいひい言いつつ日々を過ごしていたしわりとずっと笑っていたように思う。写真を見て、さてはて自分はこんなに綺麗に、うれしそうに楽しそうに笑える人間だっただろうか、とも考えてしまうくらいには。そして11月が来る。今年もあとふたつきしかないらしい。つまりは2024年が終わるということだけれどほんとうか?いや、分かってはいるけれども。今年が終わったってなにかが終わる訳でもない。





昔から雑多に音楽は好きだった。車のなかで涙そうそうを熱唱したりSMAP世界に一つだけの花を覚えてお風呂場でまた熱唱したり、小学生の頃はいきものがかりが大好きで、今でも母にバラー丼のタオル入り初回生産限定盤を誕生日にCD屋で買ってもらったりしたことをよくよく覚えているくらいには。今も変わらず移動中は基本的に音楽を、わりと大音量で、しかも延々とやめることなく聴いている。もうずっと有料プランにしっぱなしのSpotifyを巡回したり、脳死でお気に入りの曲に任せっぱなしにしたりして。いや、そう思うともはやとりあえず耳心地のいい曲を聴き流している、というほうが正しいかもしれない。昔に一時期有線のヘッドフォンを使っていた時期を経て今ではブルートゥースのそれに変えて…、うーん、あれってなんであんなにつけていて心地いんだろうな、と書きながら急に自問自答だって始まってしまうけど。かわいいからつけているというのも多少ありはするし今の白くて丸っこいフォルムをお持ちの二代目にももうかなりの愛着が湧いてはいるが、こう、耳がふかふかのものにぎゅうっと覆われているという謎の安心感はこいつかイヤーマフでしか得られないんだよなたぶん、だからヘッドフォンなんだよな(?)、とも思ったり。持ち物としては嵩張りはするが嵩張る分、忘れることは98%くらいないし充電もだいたい忘れないし…。と、急に音楽が好きだという話を前座になんの話をしたいんだというと別段、ヘッドフォンの回し者をしたいわけではなく。ただ、この世には「バンドを組んで既存のアーティストの既存曲を使ってそれを本物さながらに完成させてライブで披露する文化」があるということにしっかり直面して、そんで自分もその中にやや片足をではあるものの突っ込もうとしていることに最近、人生の物珍しさというかまたある程度の見知らぬ世界の広さを感じているな、という話である。




「バンドを組んで既存のアーティストの既存曲を使ってそれを本物さながらに完成させてライブで披露する文化」、つまりは軽音部の文化というか活動をさしているだけでいやに長い、けど、ほんとうに不思議だな、とずっと運動部で音楽には子供のころのピアノ歴くらいしか関わりがなかった人間はそう思うのだ。いつも普通に好きで聞いているバンドの曲も練習すれば弾けるし、歌えるし、プロじゃなくても一曲として完成させられる。不思議だ、と一瞬思うものの、でもまあそれはそうかだって人間がつくってるんだもんなそうか…、とも思ったりしてうまく説明しようとする前に情緒がじゃっかん変になりそうなのだけれど、わかってくれないだろうか?わからないだろうか、「あ、それいつもSpotifyで聴いてるやつ!え~…弾けちゃうんだあ…」と思わず感嘆してしまった、あの初めてで、でもそれでいてしっかりなんか…奇妙なんだよな……、いや奇妙っていうか、凄い…のか…? と感じたあの不思議な感覚を。なんというか、普段、この世にリリースされている曲を聴いていて「(楽器が)上手い」なんて少しも考えたり思ったりしない、なぜならそれがプロであると決めつけているような人間からしたらその曲をプロでもなんでもない人間がなんてことなくこなしているのを見ると素直に、純粋にドン引くくらい驚いてしまうのだ。そういうことだと、思う、たぶん。



ちなみにわたしも来年はそっち側になるようではある。が、無論、実感は一ミリも、マジでない。ベースなので曲をはっきりと体現している感じがしないからというのもあるだろうけど…、でももし、ちゃんとバンドとして披露するってなったらどういう感情が湧いたりするんだろうな。軽音部ってちゃんと凄い。学生の頃は軽音部とか1ミリも興味なかったのに、凄かったんだなあとぼんやり高校の軽音部で覚えている人達のことを思い出して素直にそう思う。音楽を自分でやる側になるというのもかなり楽しい作業だ。心の奥の底からそう思ってもいるし、わたしはちゃんとベースのことを大好きなままでいる。

1022 『日記の練習』を読んで日記の練習を始めようか

仕事終わりにハロウィンのイラストをあしらったチロルチョコをもらう。新しくスマホを心機一転変えて、違う道で家まで帰っていたら金木犀がたくさんあるのがたまたま見えた。またチロルチョコを今度は2つもらう。仕事がちょっとだけ上手くいって褒められる。久しぶりに深夜までだらっとゲームしておやすみって言って解散した。ベースがちょっとだけ上手くなった気がする。髪がまだくるくるしててセットが楽で助かるしまだかわいいのも助かる。秋になる。お気に入りのスウェットがたくさん着られる季節が来る。うれしい。最近はそういう「なんかうれしいなあ」とふわふわした頭のまんまで思うことが多くてうれしい。




くどうれいんさんの「日記の練習」を読み始めた。高瀬隼子さんの『新しい恋愛』もあと一遍読めてないし絲山秋子さんの『御社のチャラ男』もまだ半分まで、住野よるさんの『告白劇』はまだ1度も開いていないけどツイッタでたぶん最初はバンドで繋がったはずだった友人の旅行記エッセイZINE『どういうわけかドタバタ旅』もまだ全然途中なのに、また新しいのを読み始めている。前はこんなに同時進行で手を出し足を出し、と読書を複数冊に渡ってまばらに行うことはあんまりなかった。でも案外そうやって本を読んでいる人もいるんだよな、ということを知ってからはなりふり構わずとりあえず読みたい本を瞬間的に決めて、読むことにしている。読みたい本を、読みたい時に。その日のわたしはくどうれいんさんの日記が無性に読みたかったらしい。




『わたしを空腹にしないほうがいい』を初めて手に取って読んだ時から大好きな作家のおひとり、くどうれいんさん。『桃を煮る人』も『うたうおばけ』も読んで、『水中の口笛』も好きだし『氷柱の声』に関しては『わたしを空腹に〜』の次に好きで。ただ、なにが、どういう感じで好きか、はあんまり説明ができない。でもわたしはくどうさんのお姿も知っているし、SNS上だけでだけれどご様子も存じ上げている。そういうのを知っていて、そういうのもしっかり含ませていただいて、やっぱり好きなんだよなあくどうさんの紡ぐ物語は、と思っているので、しいて言うなら「ご飯を食べることがほんとうに心から好きで、かつ、ご飯を美味しそうに食べている人が好きならきっと好きだと思いますよ」くらいは言えると思う。わたしは無論、どちらも昔から大の好物である。食べることが人生でいちばん好きだ。




『日記の練習』も案の定やっぱりすっごくよかった。まあまだ10数ページしか読めていないのだけれど、くどうさんの底が見えるようで見えない晴れやかな明るさと爽やか溢れるときめきときらきら加減、に胸がいろんな意味でやられている。なぜならわたしの日記は幾分か暗いからだ。くどうさんの書くものよりたぶん、ぜんぜん暗いなあと読んですぐに思った。楽しかったことやおもしろいなと思ったことをあんまりここに詳細にして書かないからだと思う。でもどっちかと言うと「おもしろい毎日を過ごしていますね」と言われたくどうさんと同じような話で言うと、わたしはインスタを見て「楽しそうに生きてるね」と言われたことは今までに幾度としてあったなと思い返す。その時もいつも、でもそうだろ、とわたしも思っていた。日常なんてほんとうはもっとつまんなくて、なんにもなくてただただ平凡で。でもそう思うのはみんなが “残さないから” だ、と。残すから、面白そうに、魅力的に、楽しそうに騒がしそうに見えるだけで、わたしも、忘れたくないからいろんなものを残している。忘れたくない言葉や思いや考えや行動。景色、感動、人、もらったもの、あげたもの。ほんとうはほしかったもの、もう得られないもの。そういうもののなかの忘れたくないものたちばかりを、わたしはここやいろんなところによくよく書いては残し、載せては残し、を繰り返し続けている。くどうさんもたぶん、そうなんだと思う。まだ数10ページしか読めていないけれど、たぶん、同じようなイメージで日記を書いていらっしゃると思う。だからまあ、多少暗くても「いいんじゃないでしょうか」って言ってくれる気がする、くどうさんなら。それも日記だから、と。




10月も終わる。毎回月の終わりになると「わたしはこの一ヶ月間、なにをしていたんだろうか」とぼんやりしてしまう。その時その瞬間はなにもしていなかったわけでは当然ないだろうけれど、終わってみればやっぱり何もしていなかったような気がしてならなくて、そうやってひと月をいつも、ぼやぼやとした気持ちで跨いでいる。秋も来る。きっとすぐ、あっという間に寒くなって息も白くなる。また冬か、当たり前だけれど。年末年始はどうしようか、大阪に帰ろうか仕事をしようか、引越しができるのかそれとも来年にするのか。冬はどこもかしこもどの年も、考えることがいつも多いような気がする。春夏秋冬の中でも冬がいちばん苦手だ。

臆病

自分が人に無関心な分、自分にも人はほとほと無関心だと思う。いや、そんなことはないと思うし実際そんなことないし、気にかけてくれる友人は居るし遊んでくれる友人も遊びに誘ってくれる友人もいるからほんとうにそんなことはないのだけれど、ふとした瞬間に「ひとりだなあ」とよく思う。でもそれは自分の言動がそうさせているからただの因果応報なだけで、だけれど、たぶん、本当はもっと人に関心を持って、もっと他人に干渉して、もっと話してもっと笑わせて、もっとただ、自分のことを見てほしいだけでもあって。こう思って、いや、でもこうなんだよな、をこうして続けてばかりいる、自分の思考の中だけで。こう思う。でも、ほんとうはこうで、ほんとうの自分はこうで、ほんとうはこうしたくて。じゃあそうすればいいのにそうしないのは、何かどこか、諦めてしまっているからだと思う。たぶん、どこか人生を諦めているのかもしれない。未来なんてやっぱり見えないしこんな自分にはそんなものないし、やっぱり今日も「今死んでも構わないんだけどな」とぼんやり思っている。だからなんにも出来ないし、なんにもしようとしないし、勝手に好きだとも言えていないのに失恋もする。それでいい、それがよかった、仕方がないのだから、と、またひとつ諦めてしまう。たぶん、これは自分のかなり良くないところだ。分かってはいる。でもどうしたってただゆるやかに日々をやりこなしていくことで精一杯になってしまう。だから明日死んだって別に構わないな、とそう、思ってしまう。堂々巡りだ、ずっと。




「つーちゃんはいい奴だよ。だってこんなに面白いんだから」「存在が稀有」存在が、稀有?「こんな面白い人いないよ?」さて、はたして本当にそうだろうか。そう真っ正面から言われた夜更けも夜更け、ああ、自分は他人の瞳にどう映っているんだろうな、と心の中でこっそり思う。はて、自分のどの部分がどう面白くて、どの部分が稀有、つまりはめちゃくちゃに珍しく見えているんだろうな、と。自分で自分のことは当たり前だけれど見えない。鏡を通しても右に倒れたら右におなじく倒れる自分がいるだけで、誰かの言葉や視線や行動を介してでしか自分が他人からどう見えているかは推し測れなくて、しかもそれって結構短時間だったりして、難しい。それに加えてわたしは自分のことを事細かく話すのが苦手だから質問されたり自分について聞かれても避けたり上手く答えられなかったりもするから、きっと他の人より幾分か難しいことだろう。だから、分からない。自分のことを(客観的に見て)面白いとは特に思えないし、珍しい存在であることはまあ自分の特性などを踏まえた上で多少は認めはするけれど賞賛というか、そんな輝いた目で見つめられるほどでは毛頭ない。でもじゃあどう見られたいんですか?と言われたらそれはそれで特に希望は無いしむしろ「面白い」「稀有である」と言われているならそれはそれでいいか、と思ったりもする。ここまでぽろぽろと考え書き留めておいて、意識が混濁してくる。その頭で、タイトルに「臆病」とだけ書いた。人生を諦めてしまってもいるし、それはまた、臆病でもあるから。わたしは、この世のすべてに、この世の人間に、そして、自分にすらも、ずっと臆病でいる。でもきっと、臆病でない方がもっとずっと、もっと生きやすい。